「廓」は約300年前、男性にとっては「天国」女性にとっては「地獄」として形成された。江戸で吉原、京で島原とうたわれた2大遊廓の隆盛は文学や歌舞伎にもしばしば登場する。夜というのに明るい町並み、座敷には酒や料理。三味や太鼓の音。そして美しい遊女。男たちはこぞってくり出した。しかし、派手に着飾った遊女たちは実は貧しさのために身を売られてきたうら若き乙女ばかりだったのだ。美しい着物をまとい、酒やご馳走を前にして暮らしていても、彼女たちは廓を「苦界」と呼んだ。化粧より衣装よりもその「悲哀」が、彼女たちをいっそう美しく見せていたのだろうか。昭和33年に売春禁止法が出来てから、廓は大きく変化した。吉原は姿を消し、島原には太夫は7〜8人いるものの、観光ショーやお座敷に出るのみで、夜毎春をひさぐことはない。日本人の生活水準は向上し、身売りなどということもない。自らの希望で太夫になり、誇りを持ってつとめている。吉原や島原など遊女を中心とした廓は、売春禁止法によって衰退したが、芸妓を中心とした廓は今でもしっかりと生き続けている。京都には現在5つの花柳界が、芸妓、舞妓の活動の場として残っている。上七軒、祇園甲部、祇園東、先斗町、そして宮川町(アイウエオ順)。それぞれ300年前後の歴史を持つ5つの界隈には、屏や堀の囲いはなく、一般の地域と地続きで誰でも自由に往来できる。一般の人々も住んでいる。が、そこには目に見えない精神的な囲いがしっかりと残っているのだ。「廓」と書いて、「さと」と読むことがあるが、では「さと」の中から外を表現するときどう言うか。それは「まち」である。今でも宮川町では「まち」という言葉が頻繁に使われている。芸妓が素人向きの着物を着ていると「あんたはん、まちの人みたいやなぁ。」自前芸妓が少し離れた所の住まいから通っていると、「あの人はまちに住んではるさかい、大変や。」と近所との生活習慣の違いを心配したり。町内に住んでいる一般の人々のことを「あの人はお町方やから」と感覚の差を指摘する。形はなくても、心と生活の中で、歴然とした囲いが存在するのである。それが現在も人々を惹き付けてやまない廓の魅力の本質なのではないだろうか。 |