東京アメリカンクラブ で 講演 昨年(平成10年)5月、小糸さんは、東京アメリカンクラブ で、主として米国の奥様方を前に、京の伝統文化を知って貰おうと講演をされました。
そのときの原稿を掲載いたします。
アメリカン・クラブ のための 講演の原稿
こんにちは!皆さん! 私は、京都から参りました、芸妓(げいこ)の小糸と申します。
今日は、「花街(はなまち)の女性」についてお話させていただいたいと思います。
皆さんは、「芸者」という日本語をご存知ですか? 芸妓(げいこ)も芸者(げいしゃ)も全く同じ意味です。 関西では芸妓(げいこ)と、それ以外の地域では芸者(げいしゃ)と呼ばれているこ とが多いようです。 それらは一般的な呼び方で、正式には、「芸妓(げいぎ)」と呼ばれております。
「花街」とは、芸妓と遊ぶお店や芸妓たちが集まって形成している街のことです。
まず、花街の歴史について、ご紹介申し上げましょう。
日本全国には、たくさんの花街が存在し、それぞれの歴史を持っております。 だいたいは寺社仏閣の側や港の側、つまり、人がたくさん集まる場所の側にあります。 浅草などは、いい例ですね。参詣のお客のために出来た茶店などが発展して、花街に なっていくことが多かったのです。
私が所属しております、京都の宮川町というところは、鴨川べりにあり、江戸時代初期、 河原に立った芝居小屋へ芝居(現在の歌舞伎の前身)を観に来られたお客さんのため に 出来た茶店が時代と共にお酒を提供するようになり、芸妓、遊女をそろえ、そして、 これは全国でも極めて珍しい例ですが、芝居に出演する「若衆(わかしゅ)」と呼ば れる若い男の子の俳優までも抱えて、江戸中期には総合的な遊興の場としてかなり発 展していた、という花街です。
現在は、お茶屋43軒、置屋約15軒、芸妓約40名、舞妓約20名の、中規模の花 街として、350年の歴史を守っております。
お茶屋とは、芸妓を呼んで遊興する場を提供する店であり、「お座敷」とよばれる部 屋をいくつか持って、お客の要望に応じて芸妓やお酒、料理など、遊興に必要とする 全てのものを段取りする、いわば花街遊びのイベント企画会社です。
置屋とは、女の子に芸事やしきたりを教え、着物を用意して、芸妓としてお茶屋へ送 り出す、いわばプロダクションのような店、芸妓はタレント、舞妓とは、芸妓になる 前の未成年の少女のことです。
舞妓の装束は、振り袖にだらりと長く垂らした帯、肩と袖に縫い上げを付けておりま すのはまだ子供であるという日本古来の風習で、京風の髷に花簪もたくさんつけて、 あくまでも可愛らしさと幼さを強調しております。 この形は、江戸時代末期の京都の町娘の風俗であると言われております。
芸妓の装束は、袖も短く、帯は二重太鼓、簪も少なくなり、スッキリとした「粋さ」 を表現しております。明治維新の後、京都で大流行したという江戸風の島田髷が定着 し、現在に伝えられております。
*それぞれの時代が違うのはおかしい、とお思いになるかもしれませんが、これも、 長い歴史の産物ですから、350年のなかで、それぞれに最も美しくバランスが良い と思われる姿が残されてきたのだとすれば、なんの不思議もありません。
芸妓や舞妓が長く裾を引いた着物を着るときは、必ず左手で「褄」を持ちます。 これに対し、花魁(おいらん)などの遊女は右手で褄をとります。 右手で褄を持てば、着物の合わせ目は右、そして長じゅばんの合わせ目も右にあり、 男性の手が裾に入りやすいのです。 左手で褄を持てば、着物と長じゅばんの合わせ目が反対になりますから、男性の手が 入りにくくなります。 つまり、「左褄」とは「芸」は売っても「体」は売りませんよ、という気持ちを表現 しているのです。
それでは、花嫁さんはどちらの手で褄をとるのでしょうか? *右手が正解です。
ここで、「娼妓(しょうぎ)」さんについてお話させていただきましょう。 「芸」を売る「芸妓(げいぎ)」に対して、「体」を売る人を「娼妓(しょうぎ)」 と呼びます。
つい40年前まで、日本には「公娼制度」があって、「娼妓」さんが存在しておりま した。 東京で「おいらん」、京都で「こったい」と呼ばれる「太夫」たちは、この「娼妓」 の中で最も位が高いとされる人たちです。 「売春禁止法」が施行される昭和33年までは、ほとんどの花街で、芸妓と娼妓が同 時に存在しておりました。 宮川町もその一つです。明治、大正期の資料を見ると、その数は約半々ずつ。 それぞれがケンカなどしたりということはなかったのでしょうか。
その昔を知る年配の芸妓さんに聞いてみると、「公娼の鑑札は、「一夜妻(いちやづ ま)」の鑑札であるから、つまり例え一夜でもお客さんの奥さんなのだから、お座敷 では芸妓よりも上座に座ったもの」なのだそうです。
それに対して、芸妓は「体」を売らないことを誇りとし、お互いのプライドを異にす ることで上手く共存していたのでしょう。
花街が誕生し、成長してきた時代の日本では、男尊女卑の考えが当たり前でした。
花街は実に300年もの間、男性にとっては天国、女性にとっては地獄として存在し てきたのです。 裕福な男性客のために、贅を凝らした建物や調度品の中で至れり尽くせりのサービス をする花街の女性たちは、つい50年前まで、貧しいがために家族の犠牲となって身 を売られてきたという哀しい過去を持つ者がほとんどでした。
それは、芸妓も娼妓も同じです。
*身を売られる、と言っても、奴隷のように人身売買されるわけではありません。「 前借(まえがり)」といって、現在で言えば何百万円という単位のお金を置屋が親に 貸し付け、その分を娘が働いて返すというシステムなのですが、日本がまだまだ貧し かった時代、娘や姉妹を花街に送ることで やっとまともな食事にありつけた、とか、命を長らえることができた、とかいう人々 がどんなにか多かったことでしょう。
それなのに、男性のエゴイズムと貧しさとの犠牲となり自らの意に反して花街に身を 置いた女性たちを、社会は「差別」という暴力で痛めつけてきたのです。
この職業ゆえの「差別」は、現代社会にも根強く残っており、しばしば私たちの心を 傷つけることがありますが、その時代ならばなおさらひどかったことでありましょう。
ところが、このかなしく悲惨なマイナスのエネルギーが、実は、現代に伝わる「花街 文化」を造り上げた原動力となったことを申し上げずにはおれません。
花街に身を寄せた女性たちは、ただ泣いて現実を受け入れるばかりではなかったのです。 自分たちに不条理を押し付けた「一般社会」に対して、全く「裏返し」と言ってもよ いような、花街独自の「文化」を造り上げることによって、そのプライドを保ってき たのでしょう。
花街に住み、花街に伝わる「しきたり」の中で生活しておりますと、どうもそういう 気がしてくるのです。
花街の人間は、「一般の人たちとは違うのだ」という意識のもとに、着物、言葉、も てなしの心得、生活習慣など、独自の「文化」を持っております。 これらをよくよく見つめ直してみると、その奥の奥に、「一般社会への憧れ」を感じ てなりません。 例えば、花街では、お茶屋や置屋の主人を「お父さん」、女将を「お母さん」、先輩 芸妓を「姉さん」と呼びます。
仲人を立てて姉妹の杯事を交わす様子はまるで結婚式のようですし、杯事によって「 名前」のきょうだい、見習いきょうだい、分家きょうだいなどなど、何かと姻戚関係 を作って、お互いに干渉し合うのは、まさしく「家族愛」への憧れの裏返しではない でしょうか。
*不幸にして家族と離れ離れにならねばならなかった者同士が、花街という狭い世界 の中で擬似的に「親子」や「姉妹」になることで孤独感から開放されていたのではな いか、と私には思えるのです。 それがいつしか、後輩は先輩を立て、先輩は後輩をかばうもの、という「しきたり」 となり、花街の秩序を保つのに大いに役立っているのです。
さて、昔のお話はこれくらいにして、これから現代の芸妓や舞妓についておしゃべり してみようと思います。
現代は、もちろん、売られてくる、なんて人はひとりもおりません。 芸妓や舞妓に憧れて、自らの意志で入門してくる女の子ばかりです。親の反対を押し 切って、という人もたくさんおります。
たいていは14、5歳くらいで置屋に住み込み始めます。
「仕込みさん」と呼ばれる少女たちは、朝、中学校へ行き、帰ってくると踊りや鳴物 のお稽古、姉さん方のお手伝い、お母さんのお用事など、いつもバタバタと走りまわ っています。お手伝いをすることで、少しずつ花街のしきたりを身につけていくので す。やっと夕食!と思っても、好き勝手はできません。お母さんの厳しい目が光って ます。
舞妓になってお座敷で恥をかいてはいけませんから、食事のマナーをキチンと 覚えなければいけません。
中学を卒業すると、踊りの試験や杯事を済ませ、正式に舞妓にお披露目します。 舞妓の日本髪は地毛ですから、普段着はいつも着物です。髪を結い直すのは5、6日 に一度だけで、あとは自分でときつけます。朝起きたらまず、この作業です。箱枕と いう小さい枕で寝ていても、髪はけっこう崩れていますから、丹念にときなおします。 それから普段着の着物を着てお稽古に行きます。
舞妓のお稽古ごとは、「踊り」「鳴物」「長唄(唄と三味線)」「茶道」が必修科目 で、他にもいろいろ習うことができます。日曜日以外はほとんど何らかのお稽古があ り、いくつも重なったりした日はお昼ご飯どころではありません。
まだ1年生の舞妓は、お稽古の合間に、「お茶屋さんまわり」をしなければいけません。 宮川町中の全部のお茶屋を、一軒一軒、ご挨拶してまわるのです。新米の舞妓はご贔屓の お茶屋もお客もほとんどありませんから、毎日ご挨拶に行って、「顔」を覚えてもら おう、というわけです。雨の日や雪の日なら1時間近くかかりますが、サボってはい けません。 こういう日にも来た、という努力を、女将さんたちは買ってくださるのです。
お稽古とお茶屋さんまわりが済むと、夜のお支度の時間です。3時頃からお化粧を始 め、着付けをしてもらって、夕食をとります。 お座敷はたいていは5時か6時ごろからです。宴席で踊りを踊ったり、おしゃべりを したり、最近では、カラオケを唄ったりすることもあります。 2、 3軒のお座敷をまわって、帰ってくるのは、12時か1時ごろになります。 それからお風呂に入って、寝付くのは2時を過ぎたころです。
楽しみといえば、月に2回のお休み。遊園地やショッピングへ出かける舞妓さんが多 いようです。ゲームセンターや、プリクラも大好きで、ごく普通の女の子と変わりま せん。
舞妓を5年ほど勤めると、どの子も20歳前後で芸妓に替わります。
芸妓になると、 一人前だということで、お座敷での責任も重くなり、芸事のお稽古も厳しくなってき ます。 現代は、「前借り」がある子はひとりもおりませんから、だいたい5、6年ほどで、 「自前(じまえ)」といって置屋から独立するか、あるいはやめて他の仕事に就くか 、自分で決める時期がきます。 5、6年とは、置屋が舞妓や芸妓の衣装を購入するための莫大な費用やお披露目にか かる経費などを考えれば妥当な契約年数といえるでしょう。
「結婚します!」なんて言ってやめてゆく子もけっこういますが、「自前」になって 一から衣装を購入し、花街でがんばってゆこうという子もたくさんおります。
今では、花街というところは、つらく哀しい世界ではなく、女性にとってやりがいが あって生涯働くことができる職場になっているのです。
それでは、お座敷の様子をお話しましょう。夕刻のお座敷は、たいていはお料理をともなう宴席で、最近では料理屋やホテルでの パーティに出向くことが多くなっております。
芸妓や舞妓は、お客様の食事の邪魔に ならないよう、お酌や会話を中心につとめます。「お座付き(おざつき)」と呼ばれ る、踊りや鳴物などの芸は、お料理が出る前か、お料理とお料理の合間に、タイミン グをみて2、3曲ほど出すのが普通です。
これは、温かいお料理が冷めてしまわない ようにとの配慮で、そのタイミングは、調理場の方たちとよく連絡を取り合って決め るのです。
夜9時ごろからは、お食事を済まされたお客様たちが、2次会でお茶屋のお座敷にお 寄りになるケースが多く、人数も10人以下という小さな宴席になります。飲み物に おつまみ程度の宴席ですので、「お座付き」や会話だけでなく、お客様も参加してお 三味線の伴奏で唄を唄ったり、ゲームをしたりもします。 お客様のお供をして、クラブやカラオケバーに出かけることも少なくありません。
花街のもてなしの特徴は、「非日常的」であることです。 お客さまは、家庭や仕事など、日常的なことの疲れを忘れに来ていらっしゃる、とい う基本理念から、家庭的な話題、例えばお大根が一本いくらする、などということは タブーとされております。
ご家庭と同じサービスをしても到底勝ち目はありませんから、全く反対のものを、と いうのが「花街流もてなしの心得」であり、お座敷は、あくまでも「夢のような世界 」でなければならないのです。
私も、仕込みとして置屋に入ったその日から、「手が荒れる」という理由で、お洗濯 も食器を洗うこともしてはいけない、と言われました。お客様が荒れた手をご覧にな ったら現実に引き戻されてしまうではないか、と。 食事の支度や食材の買い物もしてはいけません。ものの値段を知ってはいけないのです。 お金のお話は現実的なものとされており、お座敷では興ざめだというわけです。 「あの人は金銭感覚が発達しているね」というのは、花街の人間にとっては決して誉 め言葉ではありません。
お恥ずかしい話ですが、私自身も自分のお花代が1時間いくらかということをはっき り存じておりません。芸妓はそういうことは知ってはいけない、また知ろうという感 覚であってはいけない、と教えられているからです。
お茶屋のお座敷で、お客様がお手洗いに立たれるときは、必ず舞妓か芸妓がひとりつ いてゆくしきたりになっております。これは、お客様がお手洗いでひとりきりになっ たとき、ふと現実に戻ることが多いので、せっかくの気分が醒めてしまわれないよう に、との配慮なのです。
花街では、お帰りになるお客様をお見送りする時、絶対に「さいなら(さようなら) 」とは言いません。「お気をつけて」とか、「またお早いうちに」とかが普通のご挨 拶です。 でも、かなりお馴染みのお客様のときは、「またお早うにお帰りやす」つまり、また 早くに帰ってきてね、と申し上げるのが慣習として残っております。
ときたまこの言葉を聞く時、私はその奥に「家庭への憧れ」を感じてなりません。 私たち現代の芸妓が、その昔を知る古いお馴染みのお客様からよく言われるのは、昔 の芸妓に比べて「悲哀」がなくなった、ということです。「明るい中に何かもの哀し さが見えるところが魅力だったのにね、この頃の芸妓はひたすら明るいね」などとご 評価をいただいております。
昨年、私がインターネット上に「花街」をご紹介するホームページを立ち上げた時に も、同じようなご意見をいただきました。芸妓ではなく娼妓さんについてですが、「 昔の娼妓さんは悲壮感があって、情が深かったのに、今の女の子たちはどうなってい るのか?」というものでした。
私は、その方に、「女性が悲壮感を持って春を売らねばならないような時代は、もう 二度とあって欲しくありません」とお答えしました。
現代に生きる私たちは、貧しさも哀しみも知りません。明るく楽しく、誇りを持って 花街に生きております。 それでも、お母さんやお姉さんがたからいろいろお話を聞いたりして、昔の花街の女 性の「悲哀」はよく理解しているつもりです。
私が今日、身につけておりますこの着物は、昨年あるお話に因んで染めさせたものです。
吉野太夫(二代目)という京都で一世を風靡した太夫が、のちに夫となる灰屋紹益に 送ったという手紙を持っておられるお客様とお目にかかることがあり、お話をうかが うことができました。その内容が「あなたにお目にかかりたくてし方がないのですが 、お庭の萩の露が裾にまとわりついてそれが重いので会いにゆくことができません」 というもので、お客様は、なんて文学的な美しい表現だろう、露が重いぐらいまとわ りつくとは、などと感心しておられましたが、わたしには吉野太夫が言いたいことが すぐに解ってしまいました。 「萩の露」とはお金のことなのです。前借金が残っているために晴れて結婚すること はおろか、おおっぴらに会いにゆくことさえできない、その辛さを、美しい「萩の露 」にたとえてさらりと表現したのです。 これまでどれだけたくさんの「萩の露」が、どれだけ多くの女性たちを苦しめてきた ことか。 昔の花街の女性が「金銭感覚」に異常なほどのこだわりをもっていたのも、自分たち を縛り付け苦しめている「お金」に対するせめてもの反抗ではなかったかと私は考え ます。
お金に翻弄されながらも、決してお金に負けることがなかった花街の女性たちが、心 から求めていたのは、実は、ささやかな家庭の幸福だったに違いありません。 時代は大きく変わっても、花街のもてなしは現代も変わらず、とても優しくて情にあ ふれています。 それは、哀しさや辛さをよくよく知っている人たちが長年かけて造り上げてきたもの だからなのです。 私はそんな先輩がたを持ったことを誇りに思います。 そして、彼女たちが残してくれた文化を精いっぱい受け継ぎ、消化し、次の世代へと 語り継いでゆこうと思っております。